昭和五十四年六月九日 朝の御理解
御理解 第九十三節 「氏子は神の守をして居る者を神と心得て参詣する守が留守な ら参詣した氏子は今日は御留守ぢゃと言はうが神の前をあけ て置く事はできぬ萬時に行届いた信心をせよ常平生心にかみ は皆同じやうに神の氏子ぢゃによって見下したりきたながっ たりしてはならぬぞ」
私が神様から御取次の御用させて頂くようになったのは、こんなに厳しいことはなかった、『お前の居るところが御結界だ』と、神様が仰っておった。
例えば、私がランニングシャツ、ステテコ一枚でおっても、ね、そのまま、お取次が出来る。寝んどるなら寝床の中ででもお取次が出来る。お前の居るところ、即ち御結界だ、というふうに頂いておりましたから、まあ、そんな簡単な事で人が助かるなら、ま、言うならば、神様のそういう願いを受けて、その当時はそれで人が助かっておりましたが、段々羽織を着るようになり袴をはく様になり、足袋をはかせて頂くようになり、それと、も、一つ一つそういうものが集ってくるんです。だから、はかなきゃならんようになってきたんです。「はけ」と、神様は一ぺんも仰ったことはなかったです。
御結界の、今の向こうに、右の御結界にある机がお供えがきました。
あの衝立が、おそろいが来るようになりました。だから、自然、御結界が形づくられて、そして紋付き袴に、しかも夏でも白足袋をはいて座らせて頂くようになりました。
当時は、私と久保山先生と二人でございましたから、もう、それこそ、神の前をあけておくことはならない。一日中、あの時分は、夜の御祈念は九時でしたから十時まで、夜の十時迄はそれこそ御結界をあくことはございませんでした。私がほとんど、久保山先生が一時から三時まで、四時まででしたでしょうか、御用されました。
そすと、まだ小学校、十一才でした若先生が四時から五時まで、私と久保山先生が食事をする間だけ、一時間を、も、必ず、それこそ紋付き袴をつけて奉仕いたしました。以来、若先生の御結界は十一才の時からずうっと続いておるんです。
例えば、今日の御理解を頂いてです、「神の前をあけておくことはならん。」と、仰ったが、そういう信心を、そういう修行を本気でさせて頂くようにならりましたら、先にございますように、段々とおかげで、ね、かみしもをつけた信心、と、いうようなものが、を、それこそ汚がったり見下したりではなくて、本気の意味で神の氏子としての頂き方も、段々出来るようになりました。おかげで、言うならば、椛目の時代、それこそ門前市をなすような沢山の人が集まって助かりました。ね。
だから、合楽の場合には、もう言うなら、このご理解はいらん、 と、いったような感じもします。
これからとても、神の前をあけるようなことはないでしょう。今、五十名からの先生方が移り変わり御用させて頂く、それでもやはり私は、三時半から八時半、今、ほとんど九時になることもございますけれども、ね、そして、大体は、神様は二時からと仰るのですけれども、ま、一時過ぎにはここを出て参ります。そして四時半の御祈念を終わって退がらせて頂く。その間を一時間づつ交替で先生方が、もうそれこそ水ももらさぬようにして、この御結界は、神の前をあけるということはありませんから、これからも恐らくあけるような事はないだろう、と思います。そういう信心過程が段々、いわば、おかげ頂く基にならせて頂いたんですけれども、その過程の中には、もう本当に過程であり、私は今日、こちらへ出て参ります時に、先ず床の間に向かって御祈念をいたします。 今 床の間に(鐡斉)、あれは何とか、と言う有名な書家の、昔の書家の方が書いた、何か、と言ったか、の、書が掛かっておりますが、その、漢文ですね、沢山、字が書いてある、その中に「神に至る」と、いうところがあるんです。神様の神 至る ですね。
「神に至る」と、いうところを頂いた。結局、私共がこうやって信心修行させて頂いておる、ということは、これは取次者だけの事ではありませんけれども、ね、結局、生神金光大神が仰っておられるように、「此の方ばかりが生神ではない皆もこの通りのおかげが頂かれる。」と、教えておられますから、言うなら、生神を目指しての精進なのです。それは教師、信者を問はずそうなんです。ね。
言うなら「神に至っていく」。そして、その間にいろいろな所を通らせて頂きましたが、ね。例えば、 “幽霊の正体見たり枯れ尾花”と、いうような事がありますけれども、ね。この世の中には怖いものはない、難儀とか困った、と、いうような事はないのだ。
実際、それをつぶさに、そこに至らせて頂いたら、一切が神愛であった。怖いと思っておったは、私共に神様が度胸を作って下さるためのご出演であった。ね。難儀と思っておったのは、私共に力を下さろう、お徳を下さろう、おかげを頂かせて下さろう、とする、やむにやまれぬその働きが、難儀の様相である。そういうような大変な事が段々、三十年間の、言うなら、「神の前をあけておくことはならぬ」と、仰るような修行させて頂いてるうちに、段々わかってきたのです、ね。最近では、そういう中から「合楽理念がうまれ、和道十全の道である。」と、いう事実をです。私共がそれをわかりしかもそれを、である証拠にという実証をここに表わしながら、生神金光大神への精進をしておるわけでございます、ね。神に至る。
今朝方から頂きましたお知らせに、あれは何と言うでしょうか。
茄子のおしたし、とは言わんですから、「焼き茄子を作りますね、みんな、それに醤油をちょうとかけすぎたところを」頂いた。それは、どういうご理解かと言うと、「ここでは、皆さん茄子のお知らせは安心と仰せられる、ね、紫の、いわゆる、色をしとります、ね、紫の色は安心の色」と、ここでは言われております。
茄子は安心、その安心に、また醤油をかけておる、ちょっとかけすぎた。醤油も別名をむらさき、と言います、ね。お寿司屋さんい行くと、お醤油下さい、なんて言いませんよね、むらさき、と、こう言う、ね。
いかにも、真っ黒、苦労しとるようだけども、どんな苦労の場合んです。
キッコーマンの醤油のおしらせを頂いた時には、絶対安心です、ね。それこそ、目の前が真っ暗くなるような苦労であっても、それを、おかげの元に必ずなるというお知らせの時にいただくのです。
ね。
もう、どちらにしても安心、どんな場合であっても安心だ、そういう心が段々開けてくるように、素晴らしい心が私の心に開けてきた。そして、和道十全を説くのですから、まちがいがないのです、ね。そして合楽理念を説くのですからもう絶対なんです。 私が、絶対絶対、という言葉を使います。ね。合楽理念の実験実証、ね、実証がうまれてこないなら、合楽理念をおろそかにしておる証拠だ。その気になれば、何もむずかしくないことをおろそかにしておる、勉強不足だ。
昨日、福岡の西分会の会長であります稲員さん、大変、も、大変かわった信心をされる方です。
もう本当に今まで、かって合楽にあヽいう部類の信者さんはなかった、と言うように、変わった信心をされます。神様から、言わばもうとにかく、修行なしに一足飛びに霊徳にふれていかれるという感じ、ということを此の頃お知らせ頂いとられる。まさにその通りでした。
昨日も電話がかかって参りまして、今朝からお知らせを頂いた。太陽の、お天道様、太陽の中にご自分の持っておられる一番・・・も沢山に、それこそびっくりするようなね、宝石を沢山持っておられる方なんですけどもね。もうとにかく、ヒスイの首かざりなんか、首につけとくと首がおもかろう、ち、いうごたるヒスイをかけて見えます。それが似せものぢゃなく本なもんです、も、金額にでもしたら大変なものでしょう。
そういう、まあ、そういう意味で大変恵まれた方なんですけれども、仲々、人が助かる。人がお話しを聞きにくる、拝ませてくれ、と言うて見えられる。お願いをしてやる、と、いちいちお知らせを頂かれる。昨日のお知らせも、そういう太陽の中に一番大事と思う大きなダイヤが、太陽のまん中に入っていくところを頂いた。そしてお知らせに写真、ということを字で頂かれた、という。写真を映すという写真、ね。写真とは、真を写す、と書いてあるんですね。
とにかく太陽は、ま、神様とここでは頂くべきでしょう。そすと、自分の一番大切なもの、と宝物と言うなら、普通ではそういうダイヤの何カラットともあるような大きなダイヤ、宝物でしょうけれども、それを信心で言うと最近頂きますように四つの宝。言うならば心だ、と。
心が清められていく、もう心一つですべてを創る。そういう素晴らしい働きをする、その心そのものを宝と、しえていない。もう、ほとんどの人が宝のもちぐされである、ね。合楽の信心はそこに気付かせてもろうて、その宝物を宝物たらしめるために修行がいるのだ、改まることもいるのだ、研くこともいるんだよ。いよいよ合楽理念の実証者に、ということになるんです、ね。
だから、神様と自分の宝物のような心が一つになる。そこに、初めて真の信心があり、真を写すところの影のようなおかげというのは、影ですけども、ね。その真のおかげが伴のうてくる、という、お知らせを頂いておられる。
昨日、佐賀の、これも佐賀支部長であります空閑さんから電話がかかってきた。あちらに、お神様を奉斎して支部としての共励会が二ケ月も続きますか、おかげを頂いて日々お参りがある、助かる。私は昨日、初めて聞かせて頂いたんですけれど、こげな話を。
御神米をね、頂いていって御神紙を黒焼きにして、それを粉末状態にしてビニールの袋の中に入れて、これは御神米ですよ、とも何とも言わずにです、難儀を・・例えば、昨日の御理解なんか、昨日のお届けでは、もう日々出血を大変される方に頂かせたら、あくる日はお礼に出て来られた。一人はもう婦人病で座っても立ってもおられん、というふうな難儀の苦しみのそれを与えたら、もう嘘のようにおかげを頂いた、という。昨日は、その二つのお届けでしたけども、そして、その後にあれは、あの薬は何ちいう薬ですか、よう効いた、と言うて、また見えるわけです。あれは、実は御神紙です。
あれを黒焼きにして頂いてもらったら、金光様を、それからサッサとさせて頂くと、もう本当にこげなお話がでる、と思わなかった程しにお話が出るそうです。ね。もう、ただ恐れ入ってしまいます、という昨日のお届けでした。
と、いうようにです。例へば合楽のご信者の中に、そういうような篤信とでも申しましょうか、人達が段々頂き現れ生みなされていっておる、ということは、なら、どういうことかと言うと、今、聞いて頂きました三十年間、それこそ神の前をあけておくことはならんぞ、と仰るような修行が、私の、言うならば、身も心も此処に捧げての修行させて頂いておるから、そういう働きもおこってくるのではなかろうか。ね。
その中には、今迄聞いた事もなかった、それこそ前代未聞であり、と、おもわれるような、言うなら、教祖のみ教えの深さ広さに段々ふれていくことが出来る。
今、聞いて頂いた茄子のおひたし、茄子の焼き茄子に醤油をかけると言ったようなことなんか、これは、もう、大変な事なんです。
実を言うたら、ね、それにもね、それけんと言うて、いっぺんに、それがわかった、と言うて、わかるもんぢゃないです。
言うならば、通ところを通ってきた。『幽霊の正体見たり枯尾花』と、そこまで行く迄の過程が三十年間かかっている、ということなんです。そして、この世には困ったとか、難儀とか、というもののない、ね、それもおかげなら、これもおかげ、ね。こんないまわしい、と思っておった事でも、御の字をつける生き方、というものが合楽では説かれておる、今、頂いておるところですけどね。今、私が頂くことは、『三味線を弾いてバチをこうやって当てておるところ』を、頂いたんですけどね、今。
と、言うことは、今まではね、言うなら、バチと言うことはね、天罰とか、キリスト教あたりでいう罰なんです。そういう、例えば三味線の調子が段々あわせられるよになった。天地の心と私共の心が一つになる、それこそ、稲員さんのおしらせぢゃないけれども、そこに真を写し出すところの、それこそ、稲員さんのおしらせぢゃウb「けれども、そこに真を写し出すところの働きがうまれてきた。
私も、なら、三十年かかって、天地との調和と言うか、天地との係わりあい、ということをです、大事にしていく生き方を、ここでは成行きを尊ぶ成行きを大切にする、と言うております。そこには、天地と一体になる程しの、言うならばリズムが生まれてくるのです。
言うなら、三味線の調子がきちっと合うたんです。
今まで、これは罰のように思うておった、その罰ではない、その罰があるからこそ、よい音色が出る、という、今のご理解で言うとなるわけなんです。
もう、私のような罪深い、という、その罪深いものであるからこそ、お徳が受けられるのだ、おかげが受けられるのだ、よい音色がでるんだ、と。只、むちゃくちゃ弾くのぢゃない、ちゃんと天地との調和調子が合うて、勿論、三味線でなからなければ、いくらガチャガチャやってもわずらわしい音だけしか出ません、ね。
例えば、三十年のあいだに、そういうような一つのリズムが出るような、よい調子がピシッと合わせられるような信心の稽古をしてきたことであり、それを、ここでは皆さんにも、やはり、私が頂いておるのを聞いて貰って、段々調子が合わせられるようになり、罰と思うておったのじゃない、その罰と思うておったそのもののおかげで、よい音色がでる、というようなおかげも、段々頂かれるように、皆、なってきたわけ、もう、この世の中に、それこそ十全の教えである。助かることばっかりなんだ、と、ね。その様にして、言うなら神に至っていくのです。
あんなことしたから、私は罰かぶっとるぢゃろ、と。金光教ではその罰かぶった、と思う、その罰のおかげで、よい音色が出るようになり、ために、心の調和、心の調子、それこそ心を宝と、宝たらしめる日々の信心修行がいるんだ、ということになるんですね。 段々おかげを頂いて参りまして、合楽の場合はもう本当に、此の頃、誰かが言っておられましたけれども、合楽の信心に、もう何日か参らなかったら、もうちがった、新たな信心が説かれておるから、見失うほどしに、と、また事実そうです。
一ときとでも休んでおる、ということがない、次々と信心の分野というものが開けてくる。
稲員さんにしろ、佐賀の空閑さんにしろ、ね、信心はまだ長いことはないけれども、只、合楽理念の素晴らしさ、ということがわかって、それを日々行の上に、それを現していっておられる人達なんです。ね。そこには、もう、合楽と直結する働き。
私共は三代金光様のことを地上の太陽だ、と申しあげましたよね、また、そうでした。
稲員さんが頂いておられるのは、ね、それにタイトルがついておる。親先生そのものが親神様、親先生そのものが太陽、その親先生の心に私の一番大切なものが入っていく、そこに、真夏の影が宿るんだ、という意味のことを頂いておられる。ね。
ここで、だから、親先生まかせになる、ということは、そういう働きがうまれてくるのです。ね。
昨日の御理解をまとめると、ま、一口にまとめると、昨日の御理解は、こういうことになりますかね。
神に好かれてよろこばれる信心、ということになるでしょうね。
昨日のご理解をまとめると、神に好かれて喜ばれる信心。
神に好かれただけじぢゃつまらん。好かれたら、神様が喜んで下さるような信心にならなきゃならない。神様が喜ばれるような信心、神様が喜んで下さるような信心というて、ね、只、一生懸命ご用した、一生懸命お供えをした、いかにも神様が喜んで下さるようだけれども、それでは好かれんのです。神様が好かれるのは、いよいよ本心の玉を本心の玉として宝としての生き方、ね、そういう精進を本気でさせて頂こうという人が、神様に好かれるのです。ね。
心がきたない、言うなら根性が悪い、ね、ずるい、と。例えばね、言うなら憎い、可愛い、惜しい、欲しいが心の中にいっぱいであるというような人は、神に好かれません。だからこそ、神様は、またの教えに、我情をとれ、我欲を取れ、と仰る。我情を取れバ我欲を取れバ、我身は神徳の中に生かされてあることが、はっきりわかるんだと仰る。ね。情を取れ、欲をとれとは仰ってない、我を取れ、と仰るのである。そういう精進をする人がまず好かれる。好かれただけぢゃでけん。好かれて、今度は、いよいよ神様に喜んで頂くような働きができるようになった時、初めて神に至っていく精進ということになるのぢゃないでしょうかね。
私共の前には、言うならば怖いものもない、ね。困った、難儀というようなものはない。そりゃ、思うのは心の迷いである。茄子も安心なら醤油も安心。けれども、かけすぎた時には、醤油をごはんにかけてお粗末にならんようにしたらいいでしょう。そういう生き方を、目のつまったそういう生き方をさせて頂いて、あれもおかげである、これもおかげである、と、わからせて頂く世界をめざしてね、お互い信心していかなければなりません。
今日は、このご理解ではなくてね、このご理解を私が守った。守らせて頂いたら、皆さんに今聞いて頂いた、という事を聞いて頂いたんですよね。 「 どうぞ 」